きよしこの夜/オーバンドルフ(OBERNDORF)
クリスマスになると世界中で歌われる「きよしこの夜」。この曲は、ザルツブルク郊外のなんのへんてつもない小さな田舎町、オーバンドルフで初めて歌われました。
- 関連項目:
- ウィーンのクリスマス市
聖歌「きよしこの夜」誕生
当時オーバンドルフの副司祭(助任司祭?)であった JOSEF MOHR の発案で、隣村の学校教師であり、同じオーバンドルフの教会のオルガニストであった FRANZ XAVER GRUBER に、「きよしこの夜」のテキストが手渡され、「ギター伴奏による2人のソリストと合唱のための曲(EINE MELODIE FUER ZWEI SOLOSTIMMEN , CHOR UND GITARREBEGLEITUNG)」の作曲が依頼。
オルガンではなくギターで伴奏されたのは、SALZACH川が昔からよく氾濫し、この年は洪水でたぶんオルガンが使えなかったこと、MOHRの終焉の地HALLEINの博物館に彼が愛用したギターが残るほどで、MOHR自身がすぐれたギタリストだったこと、この頃はHausMusik/家庭内室内楽が流行し、歴史に登場したばかりの現代のギターと同じ6単弦のギターが好んで弾かれたことなど。
24.Dec.にテキストを受け取ったGRUBERは、彼の勤務先ARNSDORFの学校の校舎で曲を完成させ、その夜のうちに楽譜をOBERNDORFに持ってくる。
オーバンドルフの聖ニコラウス教会におけるその夜のクリスマス深夜ミサでは、MOHRがギターを弾きながらテノールソロを歌い、GRUBERはバスソロを歌い、合唱がそのメロディーの終わりをリフレイン。これがきよしこの夜の誕生だった。
オーバンドルフ地理
ザルツブルク(SZG)から北にまっすぐ15km位自動車道156号を走ると30分位でOBERNDORF=オーバーンドルフ。
- 標高394m
オーバンドルフ巡礼教会 MARIA BUEHEL には 1663年の KALVARIENBERGTREPPE( J.M.ROTTMAYR作)の祭壇画。そこの DORFFRIEDHOF(村墓地)に小さな礼拝堂があり、その礼拝堂で「きよしこの夜」が初演された。作曲者グルーバー/GRUBER と、その依頼者であり作詞者であるモーア/MOHR の像。
オーバンドルフ歴史他
| SALZACH川が岩塩の商業路であったため、重要な SCHIFFERORT (水夫の土地) として移民がはじまる。 | |
| 1278 | SCHIFFERGILDE(水夫ギルド)できる。 |
| 1816 | の「ウィーン会議」までは川のむこう側のLAUFENと一緒のSZG(SALZBURG)大司教区だった。それ以降はSALZACH川が国境となり、二つに別れる。 |
| 1818 | クリスマス(25.DEZ.)の深夜ミサ(CHRISTMETTE)で「きよしこの夜」初演。 |
聖歌きよしこの夜の作詞:MOHR,JOSEPH
カトリックの聖職者、11.DEZ.1792,SZG - 4.DEZ.1848,WAGRAIN-SZG)
| 1792 | 私生児として生を受ける。 |
| SZGの副司祭 JOHAN NEPOMUK HIERNLE が彼を引取り教育する。 | |
| MOHR はSZGで THEOLOGIE(神学)を学ぶ。 | |
| 1815 | SZGで司祭に GEWEIHT(叙階)される。 |
| 1815-17 | SZG 近郊の MARIAPFAR im Lungau のHILFSGEISTLICHER(副司祭) |
| 1817-19 | さらに OBENDORF の臨時副司祭(Hilfspriester)。 |
| その OBERNDORFでそこのオルガニストであり隣村 ARNSDORF の学校教師であった GRUBER と親しくなる。(ENGE FEUNDSCHAFT) | |
| 反攻的なPFARRPROVISORのためにOBERNDORFを去る。 | |
| 1819-27 | SZGの様々な聖堂区教会の副司祭を勤める。 |
| HINTERSEEの聖堂区教会副司祭 | |
| 1837- | WAGRAINの聖堂区教会副司祭 |
| 1848 | 没。 |
聖歌きよしこの夜の作曲:GRUBER,FRANZ XAVER
学校教師、オルガニスト、作曲家、25.NOV.1787 IN UNTERWEITZBERG OOE - 7.JUN.1863 IN HALLEIN
| 貧しいリンネル職人??(LEINENWEBER)を父 | |
| 1799 ? | 12歳のときに師であったオルガン奏者が急病にかかり代役を勤めるまでは父親の反対のために隠れて音楽を学ぶ。 |
| 1805/06 | 南ドイツのBURGHAUSENで音楽の教育を受ける。 |
| 1806-07 | SZGでVORBEREITUNGSKURS FUER DAS LEHRFACH(教師コース準備科) |
| OBERNDORFの隣村ARNSDORFの小学校教師。 | |
| 同地にてMESNERDIENST(寺男)とオルガニストを兼任。 | |
| 1816 | KANTORSDIENST(合唱隊指導)とオルガニストになる。 |
| 1816-29 | 隣村のOBERNDORFのオルガニストも兼ねる。 |
| 1829 | BERNDORF BEI SZG の教師となる。 |
| 1833 | HALLEIN 市聖堂区教会の聖歌隊指導者 オルガニストになる。 |
| 1835 | HALLEINに移住。 |
| BERLINのKOENIGLICHE HOFKAPELLE(ベルリン宮廷礼拝堂)から | |
| 「AUTHENTISCHE VERANLASSUNG ZUR COMPOSITION DES WEIHNACHTSLIEDES」 | |
| 1863 | ザルツブルク郊外のHALLEIN没。 |
「きよしこの夜」生誕後の歴史
| Jモーアによるテキスト | |
| きよしこの夜初演 | |
| GRUBER には12人の子供。内3人の息子が父の自筆原譜がどこにも見当たらないと言っている。 | |
| 現存するGRUBER筆による最古の楽譜。 | |
| 手書き。ハライン博物館存。D-DUR。6/8拍子。2声と合唱,伴奏なし。歌詞は5章,発送記号なし。 | |
| 1825 | JOSEPH MOHRの尽力によりOBERNDORFの教会に新しいオルガンが設置。 そのときのチロルのツィラータールのオルガン製作家カール・マウラッヒァ(Mauracher)がそのために5週間OBERNDORFに滞在し、これによりチロルにこの曲が伝わる。 |
| 1831 | それを彼の兄弟仲であったシュトラッサーという歌手がライプチヒでチロル民謡として歌った。 |
| 1833 | ライプチヒ ドレスデンのフリーゼという出版社から シュトラッサー愛唱曲「4つのチロル民謡」が出版される。 |
| その4曲目が「きよしこの夜」 C-DUR!! , 作詞作曲者の記載無し!! , 伴奏はピアノ又はギター。 (C-DURはD-DURと比べると低音開放弦が自由に使えずギターには合わない。) | |
| 1836 | GRUBER筆による2番目に古い楽譜。表紙に12.DEZ.1836と記入。ハライン博物館存。ES-DUR。6/8拍子。4声部にバイオリン、ビオラ、フルート、クラリネット、ファゴット、ホルンの編成。歌詞は6章。発想記号はアンダンテ。 |
| 1845と推定 | GRUBER筆による3番目に古い楽譜。ハライン博物館存 。D-DUR。6/8拍子。混声合唱に弦楽トリオ、ホルン、オルガン。歌詞は最初の一章のみ。発想記号はLANGSAM。 |
| 1855 | GRUBER筆による4番目に古い楽譜。SZGのカロリーノ アウグステウム博物館所蔵。表紙に JOSEF MOHR 作詞、FRANZ GRUBER 作曲と明記。D-DUR。6/8拍子。ソプラノ、アルト、オルガン伴奏。歌詞は6章。発想記号はモデラート。 |
| 1891 | ハノーバー出身の宮廷オペラ歌手ヨセフ・ブレッアーヘルがウィーンの世界大博覧会で 北米のある学校所蔵という1873年版「ザルツブルグ歌曲集」から「きよしこの夜」をみつけだし、イギリス、スウェーデン、インドなどの演奏旅行で歌う。 |
| 1893 | ドイツの民謡研究家 ルードヴィヒ エルクの息子が「GRUBERの息子の一人フェリックスからGRUBER の肖像画にそえて自筆原譜がルードヴィヒ エルクに贈られた、という話を父ルードヴィヒ エルクから聞いた」、と音楽雑誌に発表したが、エルクの遺品の中には自筆原譜がなかった。それは今だに未発見。 |
| 1899 | 洪水で『きよしこの夜礼拝堂』こわされる。 |
| 1900-06 | 度々の洪水のために『きよしこの夜礼拝堂』の土地を高くする ? |
| 1918 | 100年祭で記念碑の計画。 GRUBER は彼の写真から、MOHR は生前肖像が一つもなかったので、MOHR の遺体を掘り起こし、その頭がい骨を参考にして肖像を刻みあげたという逸話が伝わる。 |
| 1937 | GEDAECHTNISKAPELLE(記念礼拝堂) |
| 一般には「きよしこの夜」のドイツ語歌詞の始まりを取って"STILLE NACHT-KAPELLE"(きよしこの夜・礼拝堂)と呼ばれる。 彫刻家ヨゼフ ミュールハウゼンによるブロンズ像が | |
| 新装なったチャペル前に除幕。 |