トップページウィーンの歴史ウィーン分離派/Secession/セセッション

1997/07/08-2007/12/07

ウィーンの世紀末

ヨハン・シュトラウス最期の記念版19世紀末というと、ヨーロッパでは産業革命に続く市民革命の100年後です。王侯貴族の培ったバロック文化が過去のものとなり、ガス・水道・電気・鉄道・自動車などに代表される近代市民文化が開花したときです。

その頃は、ウィーンの古き良き時代の頃で、ウィーンが帝都として様々な意味で世界文化の中心として栄えてました。19世紀後半にフランスで生まれた退廃主義デカダンスがウィーンへ伝わる中で、文士シュニッツラーが世紀末の病んだ人の心を見つめ、精神病理学の祖と言われるフロイトは、ウィーン大学医学部から離れて町医者となり、たった一人で大勢派に向かってました。

世界的には、一次大戦の予兆に気づかず次から次へと同盟国の色分けがされ、20世紀に向かって大きく渦巻いていた頃です。

ウィーン近代都市の装い

今から100年前の1897年は、皇后エリザベート暗殺の前年に当たります。当時67才のフランツ・ヨゼフ皇帝は矍鑠としてホーフブルク王宮で執務に励んでました。

この頃には、オスマントルコからウィーンを守った中世時代からの環状城壁が取り払われ、リンク通りと一帯の建築群は王宮を残しほとんどが完成してました。ドナウ河川工事、水道橋、ウィーン川の護岸工事と上流のダム群建設、外環状城壁の取り壊しと外環状道路工事、様々な鉄道駅の建設、これらの工事はすべて皇帝の命により行われ、いずれもウィーン史上最大の土木工事でした。

オーストリア・ハンガリー2重帝国の首都ウィーンは人口増加と共に外へ向かって拡張され、郊外ではオープンしてしばらくの中央墓地の整備が進んでました。

頑として保守的な皇帝に対し、カール・ルエーガー市長が着々とウィーンに春風を吹き込み、そんな中で近代建築の生みの親として知られるオットー・ワーグナーが今が盛りとばかりに世に出てきた頃でもあります。

ブラームス没後100年、分離派生誕100年

オットーワーグナーのデザイン建築 ヨーロッパにおける分離派運動は19世紀末ドイツに始まりました。

ウィーン分離派/Secession/セセッションは100年前の1897年に生まれました。分離派運動がドイツから南下しイタリアに伝わった結果、20世紀初頭にローマに分離派が生まれる前です。

この頃は、美術の世界では具象から抽象、音楽の世界では調性音楽から無調性音楽という、いわば様式の過渡期に当たります。

画家として歴史に名前を刻むことになるグスタフ・クリムトは弟エルンストを失い、それまでの装飾画家としての職人活動から脱皮して有名な絵画作品を手がけ始めてます。

巷ではJ・シュトラウスのワルツが大流行し、帝国民達で賑わったプラターに大観覧車が作られました。

世界最高の演奏会場として名声が安定した楽友協会ホールでは、同年没、同協会理事のブラームスの重厚な音楽が響き、前年没の神秘主義者のブルックナーの音楽としのぎをけずっていました。

ブラームスとブルックナーは仲が悪かったのか?==ブルックナーの葬式がカール教会で行われたとき、実に!ブラームスは人目を忍んで涙を流していた==それを見た当人から話を聞いたという 現在年金生活の元楽友協会勤務だった男性の話!

他方、ドイツのRワーグナー、ウィーンのブラームスやブルックナーに代表される確固とした伝統音楽に対する大きな改革エネルギーは、Rワーグナーの無限旋律から無調整音楽12音技法への道を模索し、シェーンベルク、ウェーベルン、アルバン・ベルクに代表されるウィーン新古典派を生み出そうとしてました。

2年後1898年には建築美術家アドルフ・ロースがデザインしたカフェ・ムゼウムが美術アカデミー界隈にオープンし、来たるべき20世紀を見つめた若い芸術家が集まって芸術談義に花を咲かせるようになります。

キュンストラーハウス

ウィーンの分離派セセッション

1897年のウィーンでは、それまで想像もできなかったような新様式を生んだ芸術家達が、できたばかりのキュンストラーハウス(芸術家の館)での展覧会を拒絶され、アカデミーといわれる当時の保守的な勢力から分離して分離派を設立しました。

関連リンク:
google.at ⇒ secession(独)

その分離派は、哲学者として知られることになるヴィトゲンシュタインの父等の援助を得て、翌年には美術アカデミーの裏に立派な展覧会場/secessionをかまえることになります。この建築美術家は、オットー・ワーグナーの弟子でありながら、師にも影響を与え、後にドイツのダルムシュタットで活躍することになる J・M・オルブリヒでした。

関連リンク:
google.co.jp ⇒ ダルムシュタット+オルブリヒ(日)

この、黄金のキャベツと言われた分離派美術館セセッションは、100年後の今でも斬新な洗練されたデザインに目が引かれます。正面扉のアポロンのキタラー竪琴のレリーフは分離派の初代会長クリムトのデザインが取り入れられました。扉のすぐ左の壁面と入り口のすぐ上には、ユーゲントシュティールの金色の文字で分離派機関誌の題名「VER SACRUM/聖なる春」と「DER ZEIT IHRE KUNST・DER KUNST IHRE FREIHEIT/時には芸術を・芸術には自由を」という分離派のうたい文句が掲げられました。

いよいよ20世紀への突入です。

1997高崎守弘