トップページ武田倫子の 「行った・見た・聴いた」画家エゴンシーレ2/2

画家エゴンシーレ2/2

 冬籠りの季節となった。リング通りの落葉していゆく木々にも命が宿る。霧雨の日には、装飾の取り去られた幹に、シーレの描く木が重なって見えて来る。

 ウィーン西駅より急行列車で40分。ノイレングバッハにはエゴン・シーレが、後に誤解とわかる少女誘拐事件で18日間、未決勾留で入れられていた独房がある。この中での体験より、妙に艶なる「一個のオレンジが唯一の光だった」や、人間より存在感の重さが伝わるような椅子の絵を描いている。此処より丘を廻って歩き20分ほどの所に、ゴッホの寝室の絵とよく比較される「私の居間」(ウィーン博物館)のあったアトリエもあり、ここから眺めた丘の古城のスケッチも残っている。この地の監獄で本人の心境を偲んだ後、数々の絵を見ているとぐっと彼の絵が生きて、こちらの中に入ってきた。

 その構成の仕方は、心に独特な絞りのレンズを持っていたのではないか、と思う。肉体が命を閉じこめた物体と映り、家々や木々が人物のようにように見えて来た。少しずつ色が加えられた、風に震える木にも儚かな命が籠り、木々の語っている言葉がある。素描のほんの一寸した線や色遣いにも独特のセンスが感じられる。チェスキー・クルムロフの丘よりよく街を眺めていて、その≪俯瞰法≫を身につけていったようだが、彼自身の中で濾過され、表現された方法に、その見方がこちらにも移ってくるくるのか…、慣れてしまって世の中の見落としていた点や、廻りのの言葉・出来事を、漉して立体的に受け止める必要性を示唆してもらった気がした。

 「芸術にモダンな物は存在しない」と、シーレの様に強い意志で独自の手法を展開した画家が言うと、大変な説得力と意味があり、芸術の存在自体をも考えさせられる。人間が生きている普遍性の中で、−真−を表しただけ。その天才。手紙では「絵は内なる光を持たねばならず、肉体は生きている中に使う光を内包している」と語っていたエゴン。短い生涯の中で、その光を使いきってしまったのだろうか。

 限られた人の生命は終わっても、芸術は残ってゆく。私達の冬枯れの風景の中にも、シーレの不思議な命が鳴り響いているかのように…。

2004年12月たけだのりこ